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その愛想笑いやめろサンピリ演出の元一のブログです。
適当に書いています。 2013.03.28 Thursday
サンピリの「変身」WEBパンフレット5(グリーンカード)
サンピリでは、「グリーンカード」という試みを行っている。
本番直前に役者を一人一人呼び出し、他者に影響を与える演技や行為をぶっつけ本番で行わせるという演出だ。つまりは、演出がアドリブを指定する。もちろん、その公演が終わるまで自分以外の人間にグリーンカードの指示を暴露してはならない。 例をあげると、ある演者が他の演者に発するのセリフの中で「ばかやろう」と吠えるシーンがあるとする。 グリーンカードはその際に「距離を詰めろ」や「暴力を与えながら」だの、もしくは「喋らずに」などの指示をだす。 演者はもちろん、練習はできないし、受ける相手は内容をもちろん知らない。 基本的に台本通りに進めていくことと、グリーンカードは必ず実行する約束にはしてあるので、グリーンカードの実行者は絶対に指示通りにぶっつけ本番を挑まなければならないし、受け手は役のままでその影響を受けたまま次に進めなければならない。 この実験演出は、サンピリが未経験者やブランクがある人間を集めたNO AUDITIONでいかに生々しい演技や劇的な場面をつくりだすか悩んだ末に生まれた。 作品の根底や質感、それまで維持してきたクオリティを揺るがすアラワザではあるが、 僕自身の演出や僕の想定以上の演劇性を舞台上で起こすことが可能な演出だ。 また、グリーンカードが演者全員に与えられるというルールは本番前に共有しているので、緊張感や集中力は高まる。一種のストレスを与えられる。 芝居は映像ではない。すべての回が全く同じには絶対にならない。 稽古した演技の応酬が僕は嫌いだ。 ・・・・・ <9日昼のグリーンカード> なし ・・・・・ <9日夜のグリーンカード> ・マッスィー(タケル役・絵描きの兄) 「妹・雫を追い出す場面で、ビンタ。もしくはより強く外に押し出す。」 →実行。ビンタに感化されて、雫の長ゼリフが始まる。 「茜との別れのシーンでの『ゴール』というセリフをもう一度行う」 →実行。実行前は、『ゴール』のセリフ後にすぐさま気持ちを切り替えていたが、実行後は『ゴール』後、数十秒うろたえ、立てなかった ・山崎瑞穂(雫役・妹) 「修羅場、茜の首を『死ねー』と叫んで首を締めるシーンで殺す気で締める」 →効果なし。元々、殺す気で締めていたらしい。 ・田崎小春(茜役・病気の少女) 「どこかで一回だけタケルにキスをする。キスの箇所は口でも頬でも」 →実行。修羅場、タケルに救われたシーンで頬にくちづけ。女の戦いに勝った感。 今回のグリーンカードで最も劇的な内容になった。小春恐るべし。 ・田中基康(アンサンブル・洗濯機など) 「修羅場、茜と雫が太鼓の音が鳴る洗濯機を奪い合うシーンで、ドドンドドンと音を出す」 →実行。洗濯機が倒れ、ぐちゃぐちゃに。 ・パラ子(アンサンブル・やかん、オカマバーの同僚など) 「オカマバーのママがふざけるところでキレる」 →実行。だが、微妙。その後動揺したオカマバーのママの芝居が崩れ、噛みまくる事態 ・深田知倫(アンサンブル・オカマバーのママなど) 「雫に説教する長ゼリフで、雫をより激しく揺する」 →実行。雫にエネルギーがより充填される ・福岡嗣与(アンサンブル・医者・オカマバーのオカマなど) 「病院のシーン、茜を倒れさせた後、キツく鎖を引っ張る」 →効果無し。多少影響はあったが、紐が切れたため相殺。 ・山本泰輔(アンサンブル・パソコンから飛び出す旧友) 「旧友が現れ、ヤジの中、目の前で踊りを披露されるシーン後、タケルの肩を叩く」 →実行。タケル役のマッスィーは気付かなかったらしいが、演出的に追加してよかった。 ・横山祐香里(タケル母役) 「ラスト、タケルとの会話中に更年期障害」 →実行。泣きっ面に蜂といったシーンになり、タケルの惨めさが際立った。 ・松田裕太郎(佐伯役、茜の父親役) 「ラスト、タケルを見つめてはける前に、タケルの襟を掴もうとし、殴らずに離す」 →実行。父親、佐伯視点の終わり方としても良かった。 ・・・・・ <10日昼のグリーンカード> ・マッスィー(タケル役・絵描きの兄) 「修羅場のシーンで一分間以上、助けに行かない。」 →実行。 ・山崎瑞穂(雫役・妹) 「修羅場のシーンで茜を殺す」 →実行 ・田崎小春(茜役・病気の少女) 「修羅場のシーンで生き残る」 →実行。 修羅場のシーンが泥仕合と化して面白かった。 ・田中基康(アンサンブル・洗濯機など) 「『誰かが僕の噂話をしている』が流れるタケルのダンスシーンを妨害する」 →実行。中々倒れない洗濯機に、より暴力的になるタケルが見れた。 ・パラ子(アンサンブル・やかん、オカマバーの同僚など) 「雫が落ち込むところで、泣く」 →実行。雫にエネルギーが届く。 ・深田知倫(アンサンブル・オカマバーのママなど) 「Oh、YESとか、洋ポルノみたいな言葉を発して短いセリフを一分間引き伸ばす」 →実行。ひど過ぎて面白かった。 ・福岡嗣与(アンサンブル・医者・オカマバーのオカマなど) 「『イクウウウウ』って言う」 →効果無し。他者に影響はなかったが、ひどくて面白かった。 ・山本泰輔(アンサンブル・パソコンから飛び出す旧友) 「旧友が現れるシーンで、バレないようにタケルをつねる」 →実行。だが、微妙。うろうろしてて挙動不審に。 ・横山祐香里(タケル母役) 「最初のシーンに、5セリフほど追加」 →実行。まるで元々セリフがあったかのように演じる。雫の受けも完璧でお見事。 ・松田裕太郎(佐伯役、茜の父親役) 「『コーラ代』として絵をもらうところを、『カルピス代』というセリフに置き換える」 →実行。だが、タケルが『コーラ代』としてセリフを変えなかったため、失敗か。 【感想】 今回、「グリーンカード」は自分の演出手法として確立させてみようと断行したが、 元々の演出がグリーンカードの内容を内包していて、別段効果を発揮したとは言い難い。 また、下手な役者は実行者でも受け手でも演技がブレてしまい、効果が薄く、 上手い役者も、元々直前の演出に対応できる能力があるため、効果が薄い。 だが、稽古では決して見られない「本番で生まれる生々しさ」が舞台で作品をより演劇的に豊かにしたシーンは少なくない。 緊張感や集中力に与える影響力はやはり健在であるし、何しろやっている人間が楽しく、より作品に没頭できる。 まとめると、やはり演出の一つとして行っていく意味はあるが、 どういう効果を狙っていくか、どういう事態を引き起こすか、より指示を出す人間が発想を膨らませなければならないというところか。 一方で、グリーンカードに頼らずとも作品を自分の目指す生き生きしたものに引き上げられる演出ができている、ということが自信に繋がった。 いや、演出家としての課題は山積みだ。その山に挑戦する意欲を得たとまでにしておこう。 でも、グリーンカード、めっちゃ面白い。 今度、お客さんにだけ公開した状態で上演でもしてみようか 2013.03.27 Wednesday
サンピリの「変身」WEBパンフレット4(演出プラン)
墨をぶちまけたような黒い世界。 そこに紙が何層にも渡って埋め尽くされたような、地面から少しせり上がった島がある。 紙人間が数名、その島に流され佇んでいる。 そこに女がやってくる。 女は島の上をうろつく。あたりを見渡して遠くや近くを確かめている。 見つめていく度に空間は少しずつ自分を取り戻していく。 息を吹き返して白い壁は現れ、足跡にこだまして嬉しそうにフローリングが広がっていく。 そこは部屋だ。 女、床に転がっている紙人間を指差して。「これは炊飯ジャーです」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ○オープニング 何もないところ、白紙であるところから物語が立ち上がる感覚が欲しかった。 誰もいない、暗い部屋、女が動くことで部屋が生き返っていく感覚。 家電が動くことによる生活音、そして徐々に騒々しく明るくなっていく部屋。 「これは炊飯ジャーです」と指し示すのは、思い出のある物だから。 家にあるもの全て、妹がお金を溜めて兄の為に買ってあげたものだから。 部屋が愛に溢れている、ということ。 ○妹「雫」と兄「タケル」 タケルが突如その部屋に入るとあかりは影を帯びたものになる。 光を飲み込む闇。だからこそ光を当てたくなる母性というか。 タケルもまた、「おかえり」という言葉で兄として舞台上に立ち上がる。 兄妹の会話は基本的に噛み合わない。 そういうものだと思うし、日常会話のほとんどが目を合わさないと思うから。 妹が終始オーバーに体を動かしおかしな言動をとるのは、性格というよりは演出. かまってほしい、愛してほしいと訴え続ける奉仕や報われない愛を誇張している。 ○母 母という存在はこの物語では特に重要視されていない。 強いて言えば、親子の間と兄妹の間の関係性や空間は相反するものだと示したかった。 なので劇中では二人とも一方的に会話を切っているし、 都合良く差し入れや励ましの言葉だけ受け取って利用している。 ○旧友 パソコンから不意に侵入してくる旧友。 成功している同級生や楽しげに過ごす姿がタケルを襲う。タケルの目の前で華麗に舞う。 タケルは設定上、美術を学校では教わっていない。経営系の大学を中退して独学で絵を描いている。 もちろん、そのまま卒業して就職した自分も存在していたかもしれないし、 もっと計画的に生きていれば何かしら仕事に繋がったかもしれない。 家電が旧友へと変身するのは、外部からのストレスというより内部の脆弱性を描きたかったからだ。 己を貶めるのはいつだって己自身。 「ゴール!」の叫びと共に都合の悪いことを投げて逃げていたタケルも、自分自身の弱さだけは追い出せない。 このシーンのダンスイメージはファイトクラブ! ○佐伯 松田が演じる佐伯という友人も、タケルの中では成功した人間の一人だ。 起業家養成サークルで知り合った二人は意気投合して馴れ合いとは別の親友となった。 だが、タケルは絵を描くと決め中退し二人の夢は佐伯が叶えていくことになる。 佐伯が立ち上げたのはアートリンクというNPOで病気の人とアーティストを繋ぐ事業を行っている。 佐伯が距離を開けてタケルの回りを歩くのは、現在の二人の距離感であり、 佐伯がタケルを気にかけて話しているという貧乏ゆすりのようなものだ。 軽い苛立ちや、この時間があれば他のことをしていたいという側面もあると思う。 既に二人の関係も馴れ合いと化していた。 ○誰かが僕の噂話をしている 一人きりになると再び現れるもの。 炊飯ジャーや洗濯器の音ゴトキで集中力が削がれるのは、志や能力の脆さ、 比喩的に日常生活や生活を支える労働によってやりたいことがやりたいようにできないフラストレーション。 やがてcampsの楽曲が流れ、家具は踊り出す。すべてが自分を蔑んでいるように思えてくる。 音楽は鳴り止まない。 暴れても叫んでも人生は続く。 音楽は鳴り止まない。 音楽は鳴り止まない。 音楽は鳴り止まない。 ○病院 タケルが孤独に耐えかねて部屋を飛び出してしばらくすると、舞台上にもうひとつの存在が立ち上がる。 「炊飯ジャー」とも「おかえり」とも何一つ呼ばれていないそれは望まれていない存在。 僕は、人の不幸というものはどこかの誰かの憂鬱や憎しみが流れ流れてくるものだという、 そういう超現実的な可能性を否定していない。 誰かの負のエネルギーが全然関係のない別の誰かに寄生するような、そんな現象。 イシャとして立ち上がったソレはカンジャを探す。 名前を呼ぶことで人は支配できる。数値を測ることで人を従順にさせる。 ○茜 茜は持病のネフローゼで小さい頃から入退院を繰り返してきた。 幾度となく繰り返される再発に翻弄されまいと、無感動、無関心で過ごす日々。 首の鎖は、切ろうと思えばいつでも彼女自身で切れる紐である。 だが、それは生命線であると同時に、それを切れば父親との信頼関係や 今まで投資されてきた時間・金も水の泡にきえてしまう。だから切れない。 決して不自由な訳じゃない。病気を患っていても可能性なんて無限大だ。 でも、その可能性を楽しめる人間がすべてってわけじゃない。 何かにとらわれてしまう人間も少なからずいるはずだ。チープななんちゃってSMが滑稽できつい。 ○父親 茜の父はそんな茜を見守る存在である。 見守るだけ。ただ、それが親の役割なんだと思う。会話はいらない。 ○ネットオークション 舞台はタケルの部屋に戻り、ここでタケルはネットオークションで絵を売ることを思い付き、すぐさまそれを成功させる。 ネットオークションについては特に詳しく語られることはない。 最後にタケルが知ることになるが、それは、妹・雫がすべて仕組んだことである。 以降、雫はバイトを増やしてタケルの絵を密かに買い取り続けていくことになる。 音楽には炭坑節を使った。極めて嘘くさい。必衰無常の歌。 身内だけにしか力を及ぼせない、虚しい表現者の歌。 ○出会い 浮かれているタケルは、友人・佐伯のNPOを通し病気のモデルとして茜に出会う。 鬱々とした風貌の茜に、わかりやすくテンションの下がるタケル。 そして絵を褒められるとわかりやすくテンションの上がるタケル。 やがて、高橋優の曲が流れて二人は手を合わせて踊りだす。 愛ではなく、「出会い」のダンス。 会うべくして会ったのだと、そういう出会いを信じてしまうような高揚感。 「大切なものはひとつだけ 愛する人がいればいい、それだけ」 the camps以外の楽曲は、J-POPで統一してある。 滑稽で、嘘くさい。 でも、それを聞いている瞬間は、運命だと信じている瞬間は心地いい。 そんな現実離れした現実はやっぱりある。 ○オカマ 一方、妹・雫が働いているのはオカマバーだ。 他にもバイトを掛け持ちしているが、それらは全てママの紹介。 オカマに対して特に思い入れがあるわけではなかった。 家電と話す、というシーンになる予定でもあった。 ただ、タケルの知らない世界に飛ばしたかったということと、 雫を受け入れてくれる世界が欲しかった。 ○色々 その後、雫と茜は会うことなく、タケルを取り合う。 二人とも旅行に行こうと誘い、タケルは茜を取る。 ○連呼 「お兄ちゃん」というセリフを20回言うシーン。 「茜さーん、磐田茜さーん」とイシャが呼ぶところもそうだけど、 人の名前を口に出すということはそれだけで演劇的だ。 20回言っている間に、20日間が経過する。 一日一日の雫が一言名前を呼ぶ度に殺されていく。 愛の対義語は何か。 オカマのママがこのあと、慰め程度に 「男が男に恋する辛さをあんなに教えてあげたじゃない、実らないの!」とか言う。 物語がオカマのママを語っていないのと同様に、 他人がどんな人生をおくってきたのかを知らずにその言葉が自分を動かすことはない。 他人は他人だ。 さて、雫の兄に対しての気持ちとは、果たして恋か。 何なんだろう。 決意とともに、再び嘘くさいEZ DO DANCEが流れる。 なんで人間はこんなに、滑稽なほどに、人を想う心を持つんだろう。 ○ピロートーク いちゃいちゃする。 音楽はthe campsのウィズアウト・ラブ。高橋優と同様、別れを予感させる歌だ。 月が何回も回り、車の明かりが何回も部屋を横切る。 映像の画角も、カーテンから漏れる光を想起させて美しい。 ○修羅場 雫と茜がはじめて出会う。 茜においては別段雫に対して何の関心も抱いていないが、 タケルが絵で稼いだお金で買った新しい電化製品が雫の逆鱗に触れる。 他の人に渡ってしまうとはそういうことだ。 結局駆けつけたタケルは雫を追い出し、2人は再び出会いの奇跡に酔いしれる。 この芝居、実は展開も糞もない。はじめから登場人物のスタンスは対して変わらない。 最初、茜とタケルが手を合わせていた「出会い」のダンス中も、雫はタケルを呼んでいた。 ここではそれを可視化しただけだ。 何かに没頭すると、人は見えなくなる。 ただでさえ没頭していなくても見えてこないこの世界。 そして、それは愛する人が抱える過去や現実、未来に関しても同じことだ。 「揺れる想い」嘘くさいJPOP ○透析 父親が出てきて、医者に透析の指示を伝えられる。 透析とは、おしっこがつくれなくなった、弱くなった腎臓の代わりに機械を通して血液を綺麗にしたり栄養を与える医療行為のことだ。 タケルとの生活を経て不摂生を繰り返した茜が腎不全になったような流れだが、 設定としてはタケルに会おうが会うまいが透析や移植は避けられない運命が茜を待っていた。 この病気に関しては一事が万事そうとは言い切れないが、死ぬまで自分の腎臓で生きていける腎疾患患者は多くはないと思っている。今の僕は。 ○別れ 最後、茜の透析を理由に、タケルは茜を手放す。 売れない芸術家が出会ったばかりの障害者となった病人と一緒に生きていけるはずがない。 タケルはだらしがない。ラストはがっかりした、という意見がアンケートで多かった。 でも、現実だ。 タケルがどのような具体的な努力をもって茜と生きようとしたのかは描かれていない。 でも、それは小さなことだ。 現実は、結果が全てだ。 流れていた曲は「バッドエンドはまっぴらだ」the camps ようやく病気に対しての恐怖心や自分の弱さを打ち明ける茜。 しかし、それはタケルにとっては重荷でしかなかった。 茜を愛する気持ちや出会い、二人のこれからを必死で考えれば考えるほど、 彼の筆は震えていく。描けなくなっていく。 バッドエンドが怖くて、タケルは逃げた。 茜の首に鎖が戻り、光の当たらない闇へと消えていく。 それを父親であり、佐伯である人物がただ、見ている。 やがて、一人、また一人去っていく。友人が。そして自分をよく思わない人が。 ○エンディング 家族に対しての2本の電話。 再び描き始めるタケル。 何事もなかったかのように、部屋が元通りになっていく。 彼はあの透明なキャンバスに何を描いているんだろう。 白紙の紙が今日も部屋中を埋め尽くしている。 茜はいない。 2013.03.14 Thursday
サンピリの「変身」WEBパンフレット2(変更点)
【クリエイション中に変わっていった初期設定】
1月末にようやくキャスティングが決まり、顔合わせ。 いつも僕はどんな作品にしたいかを熱弁するという、オナニーみたいなことをしているけど、確かこの頃には兄妹の話、病気の彼女という設定など大まかなものはあったと思う。 変わっているところを上げていくと、 瑞穂のやった妹「雫」は兄の作品を黙って買うために大金を得る必要があったので、とりあえず作中に「ヤクザ」という役と「風俗嬢ロボット」を出す予定だったと思う。 「風俗嬢ロボット」は、「風俗嬢ロボット。風俗嬢ロボット。」という言葉しか発さないロボットだが、女には厳しい、みたいな設定だったと思う。 また、田中基康は「五十嵐」という役で、瑞穂のやった妹「雫」のストーカーだった。つまり、当初はヤクザとストーカーと風俗と、ドロドロのつかこうへいみたいな芝居になる予定だった。設定こそ消えたが、音楽の中での長ゼリフなど、なんちゃってつかこうへいを意識したキャラクターになったと思う。 ・松田のやった主人公の友人・佐伯は、当初もってぃ(旧友役)がやる予定であった。 ・横山の登場シーンで、「泥棒」という役があり、家電を盗んでいくシーンがあった。 オープニングは、役者がストレッチなど自由にしているところから「雫」が一人一人を家電にキャスティングしていく、という流れだった。そして家電がSMごっこをしたりしていた(?)。 第一稿を見返すが、特に大まかな流れに変わりはない。 この頃から役者が部屋にある家電になったり、部屋にある家電が旧友になったり、といった「変身」をするアンサンブル(コロス)のイメージはあった。 オカマも登場。 また、医者が「茜さーん」と連れ回す病院のシーンは、5人のアンサンブルが次から次へと看護婦やら測定器具やら椅子に変身していく、というシーンであった。 アンサンブルが揃わない、わたわたする、空気が締まらないなどの理由で、福岡に託すこととなった。 主人公「武」と病気の「茜」のダンスシーンは、一番早い段階で出来ていたと思う。もちろん、もってぃこと山本泰輔の振付。曲はあとから僕が付け足した。嘘くさい、J-POP。 「佐伯」は結局松田が父親役と同時に受け持つことになった。 ラストで、病気の「茜」が悪化したことにより、「佐伯」と「父親」を入れ替えながら主人公の武へ罵声を浴びせるという激ムズなシーンが初期設定ではあった。 それを、マッスィーが「ゴール」で消す、というラスト。 ピロートークのシーンは、当初暗転で行う予定だった。 もちろん、稽古では部屋を暗くして、稽古場でも僕の部屋でもやった。 最初に測ったら10分ぐらいになった(笑) 当初、最初の長ゼリフは自由に、という指示だったが、瑞穂があまりにバタバタするため、僕が振り付けを行った。 オカマダンスこと、Ez DO DANCeのシーンは、脚本改訂の時に消すつもりだった。 間に合わないと思ったので。結果的にばっちり踊れたわけではなかったけど、いいダンスになったと思う。残してよかった。
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