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その愛想笑いやめろサンピリ演出の元一のブログです。
適当に書いています。 2015.06.30 Tuesday
M.M.S.T トーク企画 『福岡の”つくる”をめぐって』
M.M.S.Tの三島由紀夫「葵上」の上演の後、大阪から演劇研究者の正木さんと柳川藩主立花邸御花シニアマネージャー・中村さんのトークがあった。
「葵上」の方は、個人的に演出プランを練っていた作品だったので興味深く観ることができた。 M.M.S.Tの公演を観たのは初めてなんだけど、その発想や解釈、戯曲に対しての切り込み方が実に斬新で驚かされる。 まさしく、渾身の演出を以って現実世界に三島の戯曲を召喚させ、それそのものに攻め入る姿勢は崩さないといった演出。戯曲と演出の双方を存分に堪能できる劇空間だったと思う。 一方で、それはたまたま僕が葵上について多少齧っていたから口に入れることができた産物であって、初見でこの作品の観劇に挑むのは骨が折れるというのはあると思う。とにかくアクは強い。ストレートプレイに慣れていると尚更どう見ていいかわからないと思う。 観客は、公演が始まると過去や未来でなく日本かどうかもわからない何か得体の知れない場所を見せつけられる。 M.M.S.Tの作品でおそらく特徴的なのは、観客席ごと飛ばされるというより、観客のいる時間軸と乖離してそこに劇空間が色濃く浮かびあがる代物であるということだ。だから、こちら側はあくまで現実の時間が流れていて、現出するその空間に対して一定の観察力や想像力を働かせて追いかけ続かなければならない。 ガラパが観客を乗せた観光バスなら、この作品は観客をそのままに全速力で走る軍用車両だ。足を動かさなければ見送る他ない。 この例えって案外合ってる気がする。軽とかの一般車両でない分、好きな人はやっぱり追っかけたくなるし、抵抗がある人は見ないようにする。 ただ、戯曲と演出がギラギラと存在感を主張する中で、俳優もそれに匹敵する必要があったようには思えた。 現在、僕はM.M.S.Tの稽古場に度々お邪魔して出演者の訓練の様子を見させてもらっているのだが、その日々の努力や熱意、身体にいつも圧倒されている。 でも、それを以ってしてもまだ作品上では力が発揮されていない印象を受けてしまった。とても惜しい気もするし、まだまだ何かが激しく出ていてもいい気もする。ああ、あれだけやっても!! 演劇研究者の正木さんと柳川観光のプロフェッショナル、中村さんのトークは今まで見たアフタートークの中で、一番面白かった。 要は、演劇に触れてない人と演劇に詳しい人のアフタートーク。 トークの最初、中村さんはM.M.S.Tの作品を観て案の定「難しい」「わからない」といった感想を仰っていたのだけれど、正木さんが「作品で何が起こったのか最初から確認していきましょう」と進行させていくと案外キレのある解釈や発想が飛び出すから面白い。 演劇を観たことのある人間からするとその解釈や見え方は大変興味深いし参考になる。初めて演劇を見る人は一緒に作品に立ち返ることができて少しではあるけれど疑問を解消する機会になる。実に画期的。 アンケートでよく「難しい」「わからない」と書くお客さんがいるのだけれど、そうだよな、一つずつ聞いてみれば実は案外色々な発見や想像をしていたりするものだ。話すことで気づくこともある。 娯楽に難解を求めず思い巡らすこと自体が億劫だったり、浮かんだことが間違っていたらどうしよう・失礼だったらどうしよう・他と違っていたらどうしよう、表現する言葉が見つからない!ってのはあると思う。 でも、やっぱり正木さんの言うように「役者の仕事は上演まで」であって、「観客の仕事は観劇後」なんだろうと思う。感想やわかんないことの中を漂ったり、その意見の交換を通して初めて演劇は消化されていってほしい。 ネットが盛んになったことで劇場まで足を運ばなくなったんじゃなく、何でも話し合うような関係性や機会が失われていったりTwitterなどが実際の会話を代替して簡略化されたりしたことで、小劇場は力を失ってきた側面もあると思った。 このような観劇後になんでも話せる空間は貴重だ。身内ノリや、客寄せの気遣いアフタートークなんて公演と一緒にやる必要はまるでない。 また9月に行われるということなので、是非参加してみたいと思った。 2015.06.29 Monday
village80%「彼女について私たちが知っているいくつかのこと。」
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> 均整のとれた俳優たちの身体感覚、そこから立ち上がる劇空間、構成や遊びの演出を通してシンプルに「語り」を見つめた作品だった。 > 極めて緻密で高い演出力とそれに応え得る俳優の身体感覚・共通認識があったのだと思う。出来上がったその品質に職人のワザ(?)を感じた。 > > ただ、観客としてではなく、演劇を扱う者として承服できなかった点がいくつか見えてきた。 > 作品がダメだったとかではなくて、すんなりカラダに入ってきた上質な作品だったからこそ吐き出されたもののいくつか。 > > まず、事前に観客は上演前に「思い入れがあるもの」を専用のカードに書く。「作品中で扱われる」という案内があって、僕は悩んだ挙句小学校の頃に遊んだサッカーボールにした。そのカードは集められ、上演中に即興芝居のとっかかりになるキーワードとして機能する。 > その即興芝居はカードに書かれた単語から連想する架空のエピソードを即興で語るというものであったのだが、案外架空の話とわかっていても割と有りそうなエピソードが出てきて面白味はあった。 > > しかし、その直後にカードの入ったカゴが俳優の手によって投げられ、観客の書いたカードが床に散乱するという演出が起こった。 > その瞬間、僕は胸が潰されたように苦しくなって変な汗をかいた。 > > カードを床にばらまく演出の解釈は色々と出来ると思う。作品は十分に観客の感覚を開いていたと思うし、終始自由に想像できる環境は整っていた。 > だけど、その分、僕のサッカーボールは床に投げ出され、他にも沢山の思い入れのある単語のカードが床に放り出されたときに非常に不快な感覚がどっと流れて込んできた。 > あのカードをひっくり返す演出に、何か人の思いや思い出の品々を犠牲にするに足る必要性や意図や効果があったんだろうか。 > > 一方で、何ともなかったよという人もいたので僕だけが過剰に反応した可能性はある。 > 作品に差別的なセリフや個人的なトラウマを呼び起こす単語があっただけで思考停止に陥るのは全くもって勿体無い話で、僕の感覚はおそらくそれに似ている。ただ、俺ならそんな演出は絶対しないなと思った。 > 願わくば、他のカードも全部ボールだったらいいなと思った。それも空気の入ったやつ。 また、同じような身体感覚でやり通した作品や趣向そのものに対して、『でも人間が誰かや何かを語るときってもっととてつもなく面白いことなんだけどなー』という感想を出さずにはいられなかった。 観劇中、作品そのものよりも、作品になっていないことに対してのイマジネーションの方が大いに働いたという話だ。 作品内で俳優が演じていたのは、きっと人間そのものではなくて、 誰にどう伝えたいかシチュエーションやコンディションなどそういった不純物を排除した「彼女について私たちが知っているいくつかのこと。」 そのものや、類似した感覚や思いの断片であるとは思う。 しかし、その身体性に終始することが果たしてそんなに興味深いことなんだろうかと思いながら作品を見ていた。 ニュートラルに近い状態で語らせる身体性は俳優の創造性を奪っているように思えるし、エピソードで身体が変化しないのならどんなエピソードを差し替えても同様の印象しか観客に与えない。エピソードの実感はどこに行ったんだろう? 普通に話している人間の方がよっぽど魅力的だよなぁ。と。 これに関しては、想像の余地がある作品の性格上、好ましい感覚かなとは思う。何かを追求することで、選ばなかった他の要素が副産物として出てくる、といったものだと思う。 しかし気になったのは、仮に作品が演出上余分と判断された実感を排除した俳優の語りにこだわっていたとして、次の俳優の語りに移るブリッジや、一人から二人以上の語りになると途端に質感や俳優の身体が変化していて、それはどこまでこだわることができたんだろうかという点だった。 一人の語りに切れ味がある分、何か詰めが甘いように感じたし、放棄しているようにすら思える。 即興芝居に関しても、これまでの身体性を犠牲にしてまで導入する必要があったのか正直疑問に思う。 最後のシーンは好きだ。 あなたも、今ごろ誰かのエピソードに登場しているかもしれない、みたいな、最後の最後でひっくり返される感覚は心地よい。 2015.06.29 Monday
village80%「彼女について私たちが知っているいくつかのこと。」
均整のとれた俳優たちの身体感覚、そこから立ち上がる劇空間、構成や遊びの演出を通してシンプルに「語り」を見つめた作品だった。
極めて緻密で高い演出力とそれに応え得る俳優の身体感覚・共通認識があったのだと思う。出来上がったその品質に職人のワザ(?)を感じた。 ただ、観客としてではなく、演劇を扱う者として承服できなかった点がいくつか見えてきた。 作品がダメだったとかではなくて、すんなりカラダに入ってきた上質な作品だったからこそ吐き出されたもののいくつか。 まず、事前に観客は上演前に「思い入れがあるもの」を専用のカードに書く。「作品中で扱われる」という案内があって、僕は悩んだ挙句小学校の頃に遊んだサッカーボールにした。そのカードは集められ、上演中に即興芝居のとっかかりになるキーワードとして機能する。 その即興芝居はカードに書かれためちゃくちゃなお題に怯まずに誰かのエピソードを語るというものであったのだが、案外架空の話とわかっていても割と有りそうなエピソードが出てきて面白い。 しかし、その直後にカードの入ったカゴが俳優の手によって投げられ、観客の書いたカードが床に散乱するという演出が起こった。 その瞬間、僕は胸が潰されたように苦しくなって変な汗をかいた。 カードを床にばらまく演出の解釈は色々と出来ると思う。作品は十分に観客の感覚を開いていたと思うし、終始自由に想像できた。 だけど、その分、僕のサッカーボールは床に投げ出され、他にも沢山の思い入れのある単語のカードが床に放り出された。 あのカードをひっくり返す演出に、何かそれらを犠牲にするに足る必要性や意図や効果があったんだろうか。 一方で、何ともなかったよという人もいたので僕だけが過剰に反応した可能性はある。 作品に差別的なセリフや個人的なトラウマを呼び起こす単語があっただけで思考停止に陥るのは勿体無い話で、僕の感覚はおそらくそれに似ている。 願わくば、他のカードも全部ボールだったらいいなと思った。それも空気の入ったやつ。
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