2024.01.07 Sunday
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その愛想笑いやめろサンピリ演出の元一のブログです。
適当に書いています。 2016.04.03 Sunday
そめごころ「反復するイクツカノ時間と、交わる、イクツカノ時間の中で、僕等にできる、イクツカノこと」
いつものように感想を。
この作品はあの演出席に座れるかどうかで随分変わるものだと思う。 僕は昨年の演劇大学で演出家・石田聖也の人となりを多少は知る機会を得ていたことも幸いし、終始あそこに座って作品を楽しむことができたようだ。彼の表現者としての理念や信念を感覚として引き受けることができたし、現在の苦悩やこれから乗り越えなければいけない壁も一緒に見ることができた気さえする。 心地よかったり、気持ち悪かったり、なるほどなと考えさせられたり。 片思い中の女の子が恋愛モノにハマるように、作品をつくっている僕にはとてもしっくりくるモノだった。 もちろん、作品としては「あの席に座っても自分にはピンとこなかった」場合と「あの席に座らなくても楽しめた」場合、「座りたくても座れなくてずっとイライラしてた」場合など、多分他にも楽しみ方はあったと思う。 演劇の醍醐味だとまとめてしまえば簡単だけど、この作品は好き嫌いで分かれるというよりは、そういった感じで『観劇者がどのように演劇を捉えているのかを暴く』性格もあったように思う。石田聖也を見せられているようで、僕らは石田聖也のまっすぐな目にずっと睨まれていたんだと思う。彼はこの作品で題材を見つめているし、演劇を見つめているし、自分自身を見つめているし、観客も見つめていた。そのありったけの覚悟と情熱が詰め込まれていたから僕は深く心打たれたんだと思う。 とにかくこの作品について特筆すべきはメタフィクションの要素に尽きる。 君島君とせとさんがつくる“フィクション”と、それを“劇中で見つめる演出家・石田聖也(田島くん)”、そしてそれを稽古している本物の石田聖也・・・と、レイヤーを単純に重ねているようでいて、基本的に田島君演じる演出家が一番外側にいたし、フィクションも「石田聖也がつくる演劇としてのフィクション」「事件のモチーフそのものを表すフィクション」「石田聖也がモチーフに投影しているフィクション」と要素がスイッチしたりブリッジしたりダブって見えたり、あるいはメタに破壊され、別のレイヤーに移行したり(移行しなかったり!)。もっと細かく言えば他の要素もあるし、言葉で括れない瞬間も存在していたはずだ。 その全てが演劇だからこそ語られるものであって、石田聖也だから語られるものであり、彼から離れることで語られるものである。 僕もつくり手として現実に起こった事件の叫びを聞くことがあるし、その立ち上げにモチーフには存在しない要素である自身の感覚や記憶を投影してしまうことがある。誰かの叫びを聞いた気がして衝動に駆られて創作してみても、果たしてそれは作品自体が発したエネルギーであるようでいてほとんどが自分のエゴで形成されていたりする。ひどく奇妙なことが、起こっている。 この作品を見ていて悲しいな(※必ずしも否定的な見地ではない。純粋な感情。)と思ったことが二つあって、 一つは田島君扮する石田聖也が投げかけるものが全部気持ち悪いこと(笑)。それこそ、つくり手がモチーフ(あるいは作品)にどんな関係性を求めているのか『薄目を開けて覗き見』しているわけであって、本来は恥ずかしいから隠しているフェーズが丸裸にされてしまっているところ。正直、引くほど恥ずかしい・・・。 でも、その要素があるから彼の演劇が成立するんだってことを僕らは身を持って知る。薄目を開けていた目を閉じてみればきっとそれがそのままそめごころの脚本になっていることを知るだろう。それがめちゃくちゃ面白い。手の内がバレて恥ずかしい。 二つ目は、「助けてください」と電話がかかってくるけれど、それは石田聖也自身がつくりだしたフィクションの声(せとさんが演じているもの)に過ぎないのであるということ。このメタフィクションの扱われ方だと、『自身の作品はフィクションでしかない』という主張と『“自身の作品のモチーフでさえ”、自分のつくり出したフィクションでしかない』という主張をしてしまっていることになる気がする。 本当は、多少なりとも現実にあったモチーフ(ここで言う浅間山荘事件)を扱うに当たって、彼らの叫びをそのままに書く『ノンフィクション』を扱っているっていう理念があるんだと思う。でも、この演劇のシステム上『ノンフィクション』は舞台上に存在しない。メタフィクションが用いられてこそいるが、そのメタの空間でモチーフそのものに触れないでフィクションで代用しているから、それはそのままそういう意味になる。ギリギリ、サイレンの音が浅間山荘事件の記録音声であることを願うばかり。 でも、これも悪い意味ではなく、今の彼らの演劇有り様そのものを見つめているのであればそれはそれでいい気がする。 僕は、福岡の若手で言えば名実共にそめごころが抜きん出ているということにもはや疑いはない。 前回の公演で足りなかった取捨選択の吟味が十分できているし徹底している。 表現の幅もあるしアイディアも多彩で繊細な劇空間の立ち上げに成功していると思う。 俳優も身体的にもいい感じに仕上がって来ているようにも思える。 ただ、だからこそ脚本にも演出にも俳優にもまだまだ足りないものがどんどん出てきていると思うし、 これでようやく演劇の探求ができるスタート地点に立てたんだと思う。 ・・・・・・ 気になったこと ・聖也くんが芝居を止めて演出をつけていたところが、本当に演出の声だったら、本当に俳優の普段の稽古場なら良かった。 段取りだから適当に言葉言ってた印象。俳優も含めて。 観客がいる緊張感を実際に出したいのか、僕らはいない前提なのかもちょっと曖昧だった。 メタをつくる配慮が雑というか、単純にみんなの「聖也くんが芝居を止めて演出をつけていた」演技がへたくそが気がする。 照れすぎなんや! ・メタとフィクションを綯い交ぜにするのなら、「彼女は本当にせとよしのなのか」という具合までいって良かった気がする。 それぞれの役割を固定したことで、演出の権限や主張に留まり過ぎてしまっていてシステムがわかれば味気ない。 「今」は確かに伝わったけど、『それは揺らがないものである』という印象を受けた。ただの説明。安住している感じ。 そめごころの作品は「演出家の思い通りになる」けど、「想定外」には成長しない感じ。 それでいいのか。「その先」や「脅威」も提示できたのでは、と思う。 ・・・もちろん、そうなると作品の意図が変わってくるので不適切かもしれない。僕ならそうするってだけか。 あと、この公演を反復する、公演を一日三公演ぶっ続けでするっていう試みも凄く良かった。 うまく言えないけど、途方もない感じが胸に来る。これを半年もやってたのか。とりあえずお疲れ様。
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